2006年04月08日
ウファ~世之主の墓~
地図はこちら
恐らくこの地図の場所で合っていると・・・思います。何度か行ったことがある私でさえ、いざ行くと場所を間違いそうになるようなところです。(方向音痴だからよけいかも!?)ちゃんと観光ガイドにも載っていますが・・・沖永良部の観光地で、ガイドを見ながら道に迷わずに行ける場所って、何箇所くらいあるかしら?苦労しても行ってみる価値あるかもしれないという場所です。1月には、ヒカン桜が咲いていて、シークリブ(島みかん)の大木があって、とても素朴な雰囲気のある場所です。
入り口の門はいつも閉まっていますが、勝手に開けて中に入って良いらしいです。
中に入ると、こんな扉があります。この扉も勝手に開けて良いらしいです。
中にはこんな壷が並んでいます。骨壷だそうです。
世之主の墓沿革この墓を方言でウファと称している。西暦紀元一四〇〇年頃琉球国には中山、南山、北山の三王が割拠し、本島は北山王の領分に帰していた。始めて沖永良部世之主(島主)となった人はこの北山王の二男真松千代と申している。その奥方は中山王の姫で名前を真照間兼之前と称した。琉球三山は威勢を争い、たびたび合戦のすえ中山王は南山を陥れ、北山も攻め滅ぼした。世之主は頼りない沖永良部でうつうつとお過ごしなされていたところへ中山王の和睦の船が数艘与和の海に来航した。世之主は北山王の二男であるから、これはてっきり中山王の軍船であると考え違いをし小島をもって大国には適し難いと直ちに奥方も始め嫡子と差し違えて御自害なされたと言われている。この墓は世之主と奥方、嫡子の墓で中央に御三名が並び、四隅には家臣の四天王後蘭孫八、屋者真三郎、西目国内兵衛、国頭弥太郎の遺骨が納められている。お墓の造り方は方形納骨堂で純琉球造りである。けれども、石工その他については古文書もなく詳かでない。昭和四十年十二月十日重要史跡として鹿児島県文化財に指定された。
この看板の伝説のほかに、こちらのサイトでおもしろい伝承が紹介されているので、よろしかった一度およみくださいませ。この2つの文章を読む限り、私の中では世之主様は、「英雄」というイメージはあまり無いのですよね・・・。でもなんとなく、この島らしいという気もしています。
エー?お墓なのー?って感じでしたねー。
記念撮影なんかしちゃったりして。
全然怖くない。もう遺跡だからかな。
エラブの歴史が感じられる場所よねー。
それは偶然。
どんな写真を撮られたのかしら?
そのうちどこかで拝見させていただけたらいいなぁ
♪waka さん
沖永良部の歴史も、けっこう奥が深くておもしろいですよね。
あと、沖永良部の墓は、大和式の墓と流旧式の墓が混在していて、民俗学的にも興味深い史跡なのだとかなんとか(うる覚えですが)、以前どこかで読んだ気がします。
独特な雰囲気があって、
なんとなく近づきがたいオーラをかもしだしていますね。。。
「遺骨は地中に埋めるもの」という感覚でしたから・・・。
この島のお墓は、琉球式のものと、大和式のものとが混在していて、どちらかというと大和式のものが多いのですが、それでも墓の後ろに小さな建物(?)があって、その中に骨壷を安置し、地中には埋めないという墓が多いようです。